近畿ドキュメントサービス協同組合の歴史は、 その誕生の源をたどると戦後すぐの昭和21年の 近畿青写真懇話会までさかのぼることができる。 その後、改名や新組織の設立等を経て、 昭和38年の近畿工業写真協同組合の設立が、 今日の近畿ドキュメントサービス協同組合の創立で、平成25年には50周年を迎える。
経 歴 | 内 容 | 備 考 |
昭和21年 | 近畿青写真懇話会 設立 | 大阪、京都、和歌山、奈良、神戸の業者有志が集まり、 親睦と情報交換を行う。 |
昭和22年 | 近畿青写真同業組合に名称変更 | 親睦団体のみならず、感光紙の配給業務を行う。 |
昭和26年 6月 | 大阪青写真協会 設立 | 近畿青写真同業組合を発展的に解散し、 大阪青写真協会を設立する。 |
昭和28年 4 | 近畿青写真協会に名称変更 | 近畿2府4県の業者の結束を図るため、 大阪青写真協会から近畿青写真協会に名称を変更する。 |
昭和38年 7月 | 近畿工業写真協同組合 設立 |
我が国経済の高度成長と複写技術の急速な革新が相次ぎ、
業界の経済的安定と組織団結の強化を図るため、 中小企業協同組合法に基づき、 近畿工業写真協同組合を設立する。 |
昭和42年 9月 | 近畿電子複写工業協同組合 設立 | 我が国経済の発展に伴っての複写機材の変革の速さ、電子複写の多様化に呼応し、 業者間での生産材の集中化を図るとともに、 組合員に対し良質の加工製品を提供することを目的とした共同作業場である近畿電子複写工業協同組合を 設立する |
昭和56年 6月 | ジュニア会 設立 | 近畿工業写真協同組合の下部組織として、 若手経営者の育成と業界親交を目的に設立する。 |
昭和60年10月 | 近畿ドキュメントサービス協同組合に名称変更 | 上部団体である「全日本青写真工業連合会」が法人化するに伴い、 名称を「日本複写産業協同組合連合会」と変更すると共に、 傘下の組合も名称の統一を計ることになり、 当組合も「近畿ドキュメントサービス協同組合」に名称を変更。 |
昭和62年5月 | 日本複写産業協同組合連合会 第2回全国大会 大阪大会開催 |
大阪ターミナルホテル(現ホテルグランヴィア大阪)にて開催。全国から190名が参加した。 |
平成 1年 4月 | 日本複写産業厚生年金基金 設立 | 業界の地位向上並びに年金受注時の厚遇を目指し設立 |
平成 3年 6月 | 青翔会に名称変更 | ジュニア会への参加資格が原則「オーナー2世」であったのを、 広く「次代を担う若手の管理者」に改め、「共育、共感、共生」を理念に名称を「青翔会」に変更する。 |
平成 5年 2月 | 創立記念式典を開催 |
「近畿ドキュメントサービス協同組合」30周年、 「近畿電子複写工業協同組合」25周年 各々の創立記念式典を大阪ヒルトンホテルに於いて共催 |
平成 7年 1月 | 阪神・淡路大震災 | |
平成 8年 2月 | 複写連青年部 設立 | 設立当初、各地区での青年部組織は、九州・近畿・神戸の3地区のみであったが、 これ以降、各地で青年部が組織化されだす。 「青翔会」も複写連青年部に参加する。 |
平成 8年 7月 | 複写加工技能審査試験制度 (労働省認定)発足 |
業界の標準化と全員のスキルアップを目指す。 |
平成10年10月 | 近畿電子複写工業協同組合 解散 | 我が国の経済環境の悪化に伴い、業界の構造的な変化によって、 当組合の役目が終了する。 |
平成12年 3月 | 官公需適格組合に認定 | 大阪府との取引に関し、各組合員の代表として組合が一括窓口となる。 |
平成12年 6月 | Wills 設立 | 複写連青年部の設立後、各地区で青年部が立ち上がり、広域地区ではブロック化される。 その状況の中、近畿地区も神戸・京都・大阪の3地区を結び、パワーの増強を企てる結果、 「青翔会」を発展的に解散し「Wills」を設立 |
平成19年10月 | 日本複写産業協同組合連合会 第22会全国大会宝塚大会開催 |
兵庫県宝塚ホテルにて開催。全国から320名が参加した。 |
平成25年5月 | 近畿ドキュメントサービス協同組合 創設50周年記念『50周年感謝の集い』開催 |
大阪ラグナヴェールプレミアにて開催。 組合員 79 名、賛助会員 47 名、複写連会員 24 名、来賓他 7 名、合計 157 名が参加 した。 業界功労者と現役世代が懇親を深めた。又、「昭和歌謡と JAZZ で綴る 50 年」と題 して JAZZ の演奏で華やいだ会となった |